ロマンはどこだ?

そのとき思ったことをなかったことにしないために

何処へでもいける/ポケット

下書きに残ってた。

なんで公開してないのか忘れてしまったので公開しとく。

 

 

加藤さんの短編が掲載されているアンソロジーを読みましたよ!

行きたくない (角川文庫)

行きたくない (角川文庫)

 

 

「ポケット」を読み終えたとき、「えっ!」って驚いてしまった。拍子抜けというか。ぽーんと投げられて終わってしまって。

条介の世界が変わったのか、条介がなにを感じたか、明文化されることなく急に置いてけぼりにされた感じがして戸惑ったし、これがほかの作家さんの作品だったらもう読まないかも?とも思った。でも他でもない加藤さんの作品なので、いろいろ考えていて、結果的には結構好きになっている。

 

シゲが「結末」のありかたをどう考えているのかがよくわかっていない。ピンクとグレーは「本読む人なら読み解ける」のようなことを言っていて、チュベローズでは最後のセリフは誰が言ったのかはとくに決めていない、と言っていた。

だからこの本のこの終わり方を、「こう受け取った」と書くことがちょっと怖いんだけども。まあ感想なので残しておきますかね。

 

終わり方というか、この話全体として、「どこへでもいけるよ」ということがテーマなのかな?と思った。

主人公が行きたくないところは、幼馴染の別れ現場・部活・バイト・クラブとたくさんあって、それでいて「行きたいところ」はどこもない。そんななか、ふっとした偶然で見せられた異国の写真、そこにだけはふっと行けてしまう。行かせてあげるのは、かとうさんの優しさのように思えた。

条介は、自分は客席から色々な人の人生という舞台をただただ見つめている観客でしかない、と思っているけれど、そんなことはないんだよ、と。

加藤さんはラジオで「プロットとかはとくに立てず」「とある1日を書いた」というようなことを言っていたから、ほんとはそんなに意味なんてなくて、ただ「行きたくない」という感情を持つ男子高校生を書いただけかもしれないけれど。でも最後に全然違う場所に行かせたことは意味があるんじゃないのかな?って。私は思ったよ。

あれが、オアハカに魅力を感じた、とか、「良い街だね」って返事をした、とかではなく、そこに行かせたことにはやっぱりなんらかの理由があると思うんですよね。

「行きたい」ではなく「行く」。

多くの物語において描かれることって「感情の変化」だという認識なんだけど、あえて、変化については触れずに行動にしてしまったのがわたしには最初、突拍子もなくかんじた。ずっと条介の感情をたくさんたくさん描いてきたけれど、最後の最後に「行動」で終わらせるのが、面白いなぁと。

その面白さは、こうやってたくさん考えたからこそ気づいたな。逆に加藤さんじゃなかったらこんな考えずに「趣味じゃないなぁ」と思って終わらせていたなあ、きっと……。

 

短編集傘アリの中のお話たちも、ミアキスシンフォニーも、みんな孤独を抱えている人たちの話で。それは、明確にわかりやすい「孤独」だった。でも、条介の抱えるものは大義でいえば「孤独」だけど、本質的には孤独ではなく、焦燥感、迷い、むなしさだと思う。そういう意味でも、新境地というか、新鮮な話だったなぁ。孤独って心を切り裂く痛みを伴うけれど、それよりは、じりじりと真綿で首を絞められるような痛みを感じた。それもメキシコの太陽が笑い飛ばしてくれるけど。

 

あとは単純に、読みやすいな、と思った。フックはあるんだけど、悪い意味での読みにくさがなかった。ピングレにあった癖はもうすっかりなくなったんだなぁ。