「加藤シゲアキ原作・脚本」。すごっ。
前々から「原作者だからできるアプローチ」というような話はよくしていたけれど、ほんとう、そのとおりで。この脚本を原作者以外のかたが作ったら「なんでそう変えた?」って思っていたかもしれない。
加藤シゲアキという「染色」の創造主、神様だからこそできる遊び。
主人公の名前が変わり、友人2人と講師が登場。共に橋梁にグラフィックを描く「美優」が「真未」になり。そして真未は深馬の作り出した幻覚だった。
感想つらつらと書きますが、取りこぼしてる部分もあるかもなので変なこと言ってたらすみません。また考えます。
ちなみに、わたしは、救いのない話だなと思いました。
読点
NEWSの2018年のコンサート「EPCOTIA」を因数分解・再構築したものが2018-19のドームコンサート「EPCOTIA ENCORE」になったように、ドラマ「傘をもたない蟻たちは」が『それぞれの物語をいわば“因数分解”した上で再構築*1されたように、染色のさまざまなシーン・エピソードを因数分解して再構築して新たにつなげ直して違うストーリーにしたのが舞台「染、色」。
最後にひっくり返るっていうのは、『傘をもたない蟻たちは』の収録作品「インターセプト」にも似てる。インターセプトはたしかに映像化が生える。舞台にするなら染色っていうのはわかる。ドラマでも染色入ってなかったしね。
『染色』も『染、色』も両方好きだな。『染色』の人間関係を深掘りして再解釈した結果だとパンフで話してましたけど、そこからの挑戦で因数分解して再構築しようと思ったってことですよね……不思議だな……。
加藤さんが好きな舞台、書きたい話に『染色』を寄せていったのが『染、色』なのかな。なんかもう素材だもんね。テーマも意味合いも元からひっくり返ってる。
これだけ違えば、そりゃあ、点つけますわ。「染色」をバラして再度くっつけた、なので「染色」の文字と文字の間に点。「染色。」ではなくて「染、色」。でも、舞台上に出てくる「染、色」という文字を書く映像では「染 色」と書いたあとに点を打ってるんですよね。書き順にも意味があるのかな。加藤さんがそう書いたんだっけ? 「染、色」ってタイトル書いてる映像の入ってたの、NEWSな2人でしたよね。その録画たぶん消しちゃったんですよね…………。
読点といえば、加藤シゲアキさんのソロ「星の王子さま」。『ひとつだけ、を探して』。
『染、色』のなかで登場人物が「秋に咲く桜」の話をする場面があり、主人公の深馬くん(正門くん)が「それは次の春も咲くのか」と友人の北見くんに尋ねる。
秋に咲く桜の話も「星の王子さま」に出てきますね。
「秋に咲いた不時の桜は 次の春も咲けるのだろうか」
深馬くんも「ひとつだけ、を探して」いたかな。見つかるんだろうか。
最後に出てくる真未は桜舞う中に立っていた。深馬くんは真未がいないと咲けないだろうか。
真未の存在で深馬の作品は良くなったし、芸術家としての大成を考えれば真未が居たほうがいいのかもしれない。
それでやってくにはだいぶ周りの協力もありますが…てか杏奈ちゃんも北見くんも原田くんも優しくていいやつだな、ほんとに。知ってて深馬くんのそばにいるんだもんね。
最後卒業式の日の飲み会(深馬くんは留年)で、北見くんと原田くんが「まだだめか…」って言ったの、ストーリーとしてはそこでゾッとしたけど、あとあと考えたら2人はほんとに優しいな…と思った。
不時現象が起きてしまっても、その木の桜は来春に楽しむことができます。1本の木の一部で早咲きしてしまった桜は春には咲きませんが、まだ、全ての花芽が目覚めるような本当の冬が来ていないので、その木のほかの花芽は休眠ホルモンが少ないながら冬を越して、春には花を咲かせてくれますよ。
ピンクとグレー
それにしても、「染、色」、怖かったな。
観終わったとき小説『ピンクとグレー』が頭をよぎった。ピングレっぽい。ストーリーの残酷さもそうだけど、「その立場でその世界を描いてそのストーリーにする」衝撃度の大きさが、ピングレに近い。
初めてピングレを読んだときに「芸能界にいるひとが芸能界の闇に飲み込まれて死ぬ話を書く」ということに衝撃を受けてシゲのことをめちゃくちゃ考えてしまった。同じように、今回も「才能がある人が狂っていくさま」を、なにがしかの才能や魅力がなければ長い事働いていられない芸能界にいる人が書いた。衝撃受けちゃったな。しかも原作はそうじゃなかったのに。「小説」を、「舞台」という、自分がもともといた世界に近づける作業をしたときに、より残酷なストーリーになったことに驚いた。「染色」で本当はそういうことがしたかった、というわけでもなさそうだし。
ROTで「アイドルやってるなんて狂ってるよ」みたいなこと言ってた加藤さんが、これ書いたの、わかるな……という気持ちになった。
深馬くんってこの先どうなるんだろう。ピングレは、りばちゃん、生きたにしろ死んだにしろある程度「終わり」があった。深馬くんはどういう風に生きていくのかな。
ストレンジ・フルーツ
美術・学生といえば加藤さん初ストレートプレイ「SEMINAR」 を思い出すところなんでしょうが、1回しか観てないのであまり詳しいことが思い出せず……。
私は増田さん主演舞台「ストレンジフルーツ」を思い出してました。
『染、色』のなかで「作品を完成させるということは作品の死」というようなセリフがあった。
舞台「ストレンジフルーツ」の表題『ストレンジフルーツ』は「死体の胸を開いて心臓を見せる」という芸術作品のこと。舞台の中でまっすー演じる千葉くんが、南沢奈央さん演じるカナちゃんの自殺した体を切り開いてその作品を作る。
その作品を作るということはカナが死ぬということ。
作品と死が密接に結びついてる。
ストフルのなかで「作品を発表するってことは自分の心を暴かれるってことなんだよ」という千葉くんの台詞があった。
深馬くんは、だんだん、それが怖くなったのかな。
それとも。
深馬と真未の会話で「自由」という単語が出てきて、深馬は真未に「自由だな」といい、だんだん真未の世界に染まっていく。ということは深馬くんは自由になりたかったのか?
それとも、「描きたい絵を描く」ために精神を狂わせていったのか。
自分自身の才能の限界と向き合いたくなくて病んだのか。
わたしは最初「才能の限界」かな〜と思った、「滝川先生が自分に嫉妬してる」という虚勢をはるような物語を勝手に作り上げていたから。自分と同じぐらいその才納を見出されていた北見くんの造形作品もけなすしね。(真未がけなすけど、それってつまり……)
作品を完成させることは、自分の心を、才能を、そして才能の限界を人の前にさらけ出してしまうこと。
深馬くんは技術はあって基本的に才能はあるわけだから、「描いている途中」のものははたから見てもすごいなと思わせる力があるんだろう。「どんな作品ができるんだろう」と、友人や先生をわくわくさせるだけの魅力がきっとあるんだろう。「まだまだ成長し続けている!!」と思っているものが、「作品の完成」をもってそこで止まることになる。だから完成させられずにキャンバスを破いてしまう。真未という存在を得て、やっと作品を完成させられたし、自由でいられた。
でも、いろんな要素があって複合的に要因になったのかな。自由になりたくて、でも認められたくて、才能の限界を感じて。
真未を心の中に作り出した深馬は良い絵を書いてキュレーターに見つけられた。
真未という存在と深馬はどうやって向かい合っていくんだろうか。もう一切捨てて、杏奈ちゃんと生きていくんだろか。杏奈に電話してたもんなあ。してたよね? してたっけ?
見えている世界
杏奈ちゃんについては、原作より登場シーンが多くなったことでより「都合のいい女」感が強まったように思えた。原作では主人公の「市村」を挟んで「美優」と対比するように出てくる「杏奈」、登場シーンもそれほど多くないし、立ち位置としてはまあこういうものかな……ぐらいに思っていましたが、舞台になったらそれがさらに「すっごい都合いい女だな」って感じたんですよね。
でもあとあと考えてみれば、深馬が勝手に「自分にとって都合がいいように妄想している」から、私にもあれだけ「都合がいい女」に観えたんでしょうね。私がその「都合いい女」と思ったシーン、台詞、感情のどこからどこまでが深馬の想像・妄想で、どこからが真実なのかな。
真未に関する部分はもちろん深馬くんの妄想だけど、ほかのところはどうだろう? 深馬くんと真未(原作でいえば美優)がセックスしてるのと並行して舞台の上では杏奈ちゃんが面接を受けているところとか。杏奈ちゃんが面接で尊敬する人物に深馬くんの名前を上げたことも、北見くんに深馬くんのこと相談するシーンとか。
最近は面接で「最近読んだ本」「尊敬する人物」って聞いてはいけない、とされることも多いようです。それは本人の思想に関わる部分なので。シゲがそのことを知ってたらあの「尊敬する人物」の質問は別のエピソードにしたのかな? いやいやもしかして、最近はそういう質問がされないと知っていてのあえての質問で、「これは深馬の幻覚、妄想ですよ」って表現なのか…? しかし、深馬はそもそも尊敬されたかったのか? 「尊敬する人物は、思想」。
尊敬する人物のところ、あの世界で「事実」なのかな〜。
真未が深馬の作り上げた想像上の人物(二重人格?)ということは原田の記録していた映像でわかるんだけど、そのあとに種明かしとして舞台前半での「真未と深馬のシーン」を「深馬単独のシーン」としてリプレイする。ここすごくわかりやすくしてるなと思った! リプレイするシーン2つある。
性描写の話
小説「染色」といえば性的描写に挑戦という要素もあった。私は「染色」で最後に自慰をしたところがいまいち飲み込めていないけど。なんとなく、あの自慰シーンは「虚しさ」と「卒業」「決別」みたいな意図を読んでました。
原田くんが滝川先生を好きだったという、「同性愛者」であったという最後に挟まれるエピソード(そしてとくにゲイやバイという改めての言語化はない)、それをもとに最初から振り返って考えてみると、新たな発見ありそう。